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第3話 還るべきは、この腕

last update Last Updated: 2025-10-27 19:16:03

 その夜、宰相官邸の書斎には、まだ明かりが灯っていた。

 帝国宰相セイラン=ミラヴィスは、執務机の前にひとり、手帳を閉じていた。

 日付は、明日──「将カイ=アレクシオン」が帰還する予定の日だった。

 ──七年ぶり、か。

 その言葉を胸の内で繰り返したとき、手のひらがわずかに震えた。書き終えた手帳を閉じる指が、いつになく慎重になる。ふと、七年前の春を思い出していた。

 送り出したのはカイが十六歳の時だった。あどけなさが残っていた。剣の握り方も、軍靴の歩き方もぎこちなかった。父親とは違う──どこか暖かみのある漆黒の瞳だけは、いつもまっすぐだった。

 あの時、自分は言った──「無理をするな。背を預けられる指揮官になれ」と。 

 カイは「はい、父上」と笑った。 

 幼さの残るその笑みに、どこかホッとした自分がいた。

(まだ、似ていない)

 そのことに、安堵していたのだ。

 けれど、七年。 

 戦場にいた。 

 剣を交え、人を導き、血を浴び、そして生き延びた。 

 あの子が大人になっていることは、当然で、当然なのに──

 怖いと思った。

 もしも、あの男に似ていたら。表情が、声が、背の傾け方が、指の動かし方が。思いがけないところで、記憶の亡霊が揺れるのではないかと。

 ……怖い。けれど、それでも。

 あの子が「父上」と呼んでくれるなら。 

 俺はまた、明日を信じられる気がする。

 ずっと、待っていたのだ。

 小さなころは、毎朝書斎に来て膝に乗ってきた。抱きしめれば、ふわっと太陽のような髪の匂いがした。寒い日には布団から出たがらず、熱を出せばこちらを呼び、叱れば唇を噛んで耐えた。

 泣くことはほとんどなかった。強い子だった。けれど眠る前、そっと手を伸ばして服の裾を掴む夜が何度もあった。

 守りたかった。すべてを賭けてでも。あの子は、あの男が残した命で──でも、それだけじゃない。

セイランが育ててきた。 

 目を見て、声を聞いて、抱きしめて、名を呼んできた。

 愛していた。 

 自分の子として、大切に、大切に、愛してきたのだ。

 手帳を閉じ、灯りを落とす。  

 明日、あの子が帰ってくる。  

 ──けれど、出迎える言葉は、まだ決まっていない。  

 何を言えばいいのか。どう迎えればいいのか。  

 「父」としてか、「宰相」としてか、それとも──

 宰相セイラン=ミラヴィスは、誰にも言えぬまま、  

 その夜をひとり、静かに過ごしていた。

 静寂の中で、セイランは胸の奥の痛みに気づいていた。

 それは懐かしさにも似た、名を呼びたくなるほどの疼き。

 過去が血肉のように今も息づいていることを、否応なく思い知らされる。

 ──明日、彼に会う。

 その事実だけで、呼吸が浅くなるほどに。

 灯りを落とした書斎の闇の中、セイランは目を閉じた。

 誰にも見せられぬまま、胸の奥で静かに呟く。

「……もう二度と、奪われはしない」

***

 帝都の灯りが見えたとき、息を呑んだ。

 懐かしい空気が、胸の奥を刺すように満たしていく。

 ──ここに、あの人がいる。

 セイラン=ミラヴィス。

 俺を育ててくれた男。

 たぶん、一生、忘れられない背中。

 俺が最初に「憧れた」男で、最初に「触れたい」と思ってしまった男で、そして、最初に「超えたい」と思った人。

 十六で離れてから、七年。

 幾つもの戦を越え、何百人の兵を率いた。

 死線を越えるたび、わかっていった。

 あの人が、どれほど強かったのか。

 どれほど深く、静かに、孤独を抱えていたのか。

 あの背中に追いつきたかった。

 でも、本当は──抱きしめたかったんだ。

 そう、俺は知っている。

 あの人の首筋に、噛み跡があることを。

 五歳のとき、偶然、見てしまった。

 セイランの襟元から覗く、赤く小さな痕──

 それが、番《つがい》の印だと知ったのは、後になってからだ。

 誰に刻まれたものか、知っている。

 父・アレクシス=アレクシオン。

 かつて帝国を共に築き、そしてセイランに討たれた男。

 その意味も、仕組みも。

 刻まれた者は、生涯その名を呼び続ける。

 理性を超えて、魂が相手を探し続ける。

 自分の手で、もう一度その肌に触れたかった。

 名を呼びたかった。

 そして、もう彼のものでもないと──俺にだけ、それを見せてほしかった。

 ……子供じゃない。  

 もう、父と子ではいたくない。

 あの人が、夜に誰を想って泣くのか。  

 知りたかった。  

 俺だけを、見てほしかった。

 「俺だけは、あの人を愛していい」と、いつかそう言ってもらえる日がくるのなら──

 俺は、何度だって地獄に落ちる。

 会いたい。

 名前を呼びたい。

 あの人を、もう一度この腕で──

 「奪いたい」

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