LOGINその夜、宰相官邸の書斎には、まだ明かりが灯っていた。
帝国宰相セイラン=ミラヴィスは、執務机の前にひとり、手帳を閉じていた。 日付は、明日──「将カイ=アレクシオン」が帰還する予定の日だった。──七年ぶり、か。
その言葉を胸の内で繰り返したとき、手のひらがわずかに震えた。書き終えた手帳を閉じる指が、いつになく慎重になる。ふと、七年前の春を思い出していた。
送り出したのはカイが十六歳の時だった。あどけなさが残っていた。剣の握り方も、軍靴の歩き方もぎこちなかった。父親とは違う──どこか暖かみのある漆黒の瞳だけは、いつもまっすぐだった。
あの時、自分は言った──「無理をするな。背を預けられる指揮官になれ」と。
カイは「はい、父上」と笑った。 幼さの残るその笑みに、どこかホッとした自分がいた。(まだ、似ていない)
そのことに、安堵していたのだ。
けれど、七年。
戦場にいた。 剣を交え、人を導き、血を浴び、そして生き延びた。 あの子が大人になっていることは、当然で、当然なのに──怖いと思った。
もしも、あの男に似ていたら。表情が、声が、背の傾け方が、指の動かし方が。思いがけないところで、記憶の亡霊が揺れるのではないかと。
……怖い。けれど、それでも。
あの子が「父上」と呼んでくれるなら。
俺はまた、明日を信じられる気がする。ずっと、待っていたのだ。
小さなころは、毎朝書斎に来て膝に乗ってきた。抱きしめれば、ふわっと太陽のような髪の匂いがした。寒い日には布団から出たがらず、熱を出せばこちらを呼び、叱れば唇を噛んで耐えた。
泣くことはほとんどなかった。強い子だった。けれど眠る前、そっと手を伸ばして服の裾を掴む夜が何度もあった。
守りたかった。すべてを賭けてでも。あの子は、あの男が残した命で──でも、それだけじゃない。
セイランが育ててきた。 目を見て、声を聞いて、抱きしめて、名を呼んできた。愛していた。
自分の子として、大切に、大切に、愛してきたのだ。手帳を閉じ、灯りを落とす。
明日、あの子が帰ってくる。──けれど、出迎える言葉は、まだ決まっていない。
何を言えばいいのか。どう迎えればいいのか。 「父」としてか、「宰相」としてか、それとも──宰相セイラン=ミラヴィスは、誰にも言えぬまま、
その夜をひとり、静かに過ごしていた。静寂の中で、セイランは胸の奥の痛みに気づいていた。
それは懐かしさにも似た、名を呼びたくなるほどの疼き。 過去が血肉のように今も息づいていることを、否応なく思い知らされる。──明日、彼に会う。
その事実だけで、呼吸が浅くなるほどに。 灯りを落とした書斎の闇の中、セイランは目を閉じた。 誰にも見せられぬまま、胸の奥で静かに呟く。「……もう二度と、奪われはしない」
***
帝都の灯りが見えたとき、息を呑んだ。
懐かしい空気が、胸の奥を刺すように満たしていく。──ここに、あの人がいる。
セイラン=ミラヴィス。
俺を育ててくれた男。 たぶん、一生、忘れられない背中。俺が最初に「憧れた」男で、最初に「触れたい」と思ってしまった男で、そして、最初に「超えたい」と思った人。
十六で離れてから、七年。
幾つもの戦を越え、何百人の兵を率いた。 死線を越えるたび、わかっていった。あの人が、どれほど強かったのか。
どれほど深く、静かに、孤独を抱えていたのか。あの背中に追いつきたかった。
でも、本当は──抱きしめたかったんだ。そう、俺は知っている。
あの人の首筋に、噛み跡があることを。五歳のとき、偶然、見てしまった。
セイランの襟元から覗く、赤く小さな痕── それが、番《つがい》の印だと知ったのは、後になってからだ。誰に刻まれたものか、知っている。
父・アレクシス=アレクシオン。 かつて帝国を共に築き、そしてセイランに討たれた男。その意味も、仕組みも。
刻まれた者は、生涯その名を呼び続ける。 理性を超えて、魂が相手を探し続ける。自分の手で、もう一度その肌に触れたかった。
名を呼びたかった。 そして、もう彼のものでもないと──俺にだけ、それを見せてほしかった。……子供じゃない。
もう、父と子ではいたくない。あの人が、夜に誰を想って泣くのか。
知りたかった。 俺だけを、見てほしかった。「俺だけは、あの人を愛していい」と、いつかそう言ってもらえる日がくるのなら──
俺は、何度だって地獄に落ちる。会いたい。
名前を呼びたい。 あの人を、もう一度この腕で──「奪いたい」
その夜、宰相官邸の書斎には、まだ明かりが灯っていた。 帝国宰相セイラン=ミラヴィスは、執務机の前にひとり、手帳を閉じていた。 日付は、明日──「将カイ=アレクシオン」が帰還する予定の日だった。 ──七年ぶり、か。 その言葉を胸の内で繰り返したとき、手のひらがわずかに震えた。書き終えた手帳を閉じる指が、いつになく慎重になる。ふと、七年前の春を思い出していた。 送り出したのはカイが十六歳の時だった。あどけなさが残っていた。剣の握り方も、軍靴の歩き方もぎこちなかった。父親とは違う──どこか暖かみのある漆黒の瞳だけは、いつもまっすぐだった。 あの時、自分は言った──「無理をするな。背を預けられる指揮官になれ」と。 カイは「はい、父上」と笑った。 幼さの残るその笑みに、どこかホッとした自分がいた。(まだ、似ていない) そのことに、安堵していたのだ。 けれど、七年。 戦場にいた。 剣を交え、人を導き、血を浴び、そして生き延びた。 あの子が大人になっていることは、当然で、当然なのに── 怖いと思った。 もしも、あの男に似ていたら。表情が、声が、背の傾け方が、指の動かし方が。思いがけないところで、記憶の亡霊が揺れるのではないかと。 ……怖い。けれど、それでも。 あの子が「父上」と呼んでくれるなら。 俺はまた、明日を信じられる気がする。 ずっと、待っていたのだ。 小さなころは、毎朝書斎に来て膝に乗ってきた。抱きしめれば、ふわっと太陽のような髪の匂いがした。寒い日には布団から出たがらず、熱を出せばこちらを呼び、叱れば唇を噛んで耐えた。 泣くことはほとんどなかった。強い子だった。けれど眠る前、そっと手を伸ばして服の裾を掴む夜が何度もあった。 守りたかった。すべてを賭けてでも。あの子は、あの男が残した命で──でも、それだけじゃない。セイランが育ててきた。 目を見て、声を聞いて、抱きしめて、名を呼んできた。 愛していた。 自分の子として、大切に、大切に、愛してきたのだ。 手帳を閉じ、灯りを落とす。 明日、あの子が帰ってくる。 ──けれど、出迎える言葉は、まだ決まっていない。 何を言えばいいのか。どう迎えればいいのか。 「父」としてか、「宰相」としてか、それとも── 宰相セイラン=ミラヴィスは
朝の陽が、私邸の書斎を斜めに照らしている。 広くはないが整えられたその部屋の中、セイランは静かに書き物を続けていた。 卓上には、整然と並べられた書類と封蝋済みの報告書。 私邸での朝も彼にとっては「執務の延長」であり、 公務と報告が、日々絶え間なく届く。 ペン先が紙を滑る音だけが、静けさの中に響いていた。 そんなとき── 襖の向こうから、小さな足音が近づいてくる。 ぱた、ぱた、と。 寝起きの足取りで、まっすぐに。 セイランは、ペンを止めた。 やがて、そっと扉が開かれる。 そこに立っていたのは、寝間着姿のカイだった。 目元は少し眠たげで、髪はまだ寝癖で跳ねている。 けれど、どこか不安げに、足元に小さな枕を引きずっていた。 セイランは何も言わなかった。 ただ、手元のペンを静かに置いて、椅子を引いた。 そして、無言のまま、腕を広げる。 カイは一瞬だけ躊躇い、けれど次の瞬間には飛び込んでいた。 すとん、と胸元におさまる。 小さな手が、服の裾を握る。「……おはよう、セイラン」 「おはよう、カイ」 セイランの声は、いつもより少しだけ低くて、柔らかかった。 しばらく何も言わず、ただ抱かれていた。 小さな手が、セイランの服をそっと握る。 髪が揺れ、鼻先が襟元に沈んだ。 ─昨夜と同じ匂いがした。 むせかえるほど甘く、微かに熱を帯びた香りが、胸の奥を揺らす。 それは、ざわざわと、身体の内側を目覚めさせる匂いだった。「……ねえ、セイラン。きのうの夢、変だった」 「どんな夢だった?」 「セイランが……誰かにつれていかれる夢」 その言葉に、セイランの手が一瞬だけ止まる。 目に見えて動揺したわけではない。 けれど、ごくわずかに瞳が細められた。「……誰に?」 カイは、セイランの胸に顔を押しつけたまま、小さく息を吸った。 ──言おうとして、言葉が止まる。(アレクシス。僕のほんとのお父さん) でも、それを口にしてはいけない気がした。 夢だと思っていたはずなのに。 本当は、知っている。 昨夜、あの光の中で見たものは── けれどカイは、ただ小さく首を振って言った。「わかんない……でも、すごくこわかった」 「……怖がらなくていい。俺はお前を置いていかない。そう約束した
静かな寝室に、甘く重い香が満ちていた。 肌に触れた舌先が、ぞくりとした痺れを残していく。 セイランは目を伏せたまま、肩をわずかに震わせた。「……痕、疼くだろ?」 囁きと共に、アレクシスの唇が首筋へと降りていく。 熱を帯びた吐息が番《つがい》の痕に触れるたび、そこだけが脈打つように疼いた。 舌が、ゆっくりと痕をなぞる。繰り返し、円を描くように。 そのたび、セイランの背が弓なりに反る。 「や、っ……あ……」 喉奥から洩れた声は、甘く震えていた。 まるで、痕が記憶していた疼きを呼び起こされたように、身体が熱にきゅっと縛られる。 そして──ふいに。 その痕を、アレクシスの唇がやさしく噛んだ。 「……っ♡」 セイランの身体が跳ね、腰が浮く。 瞬間、脚の奥まで痺れるような衝撃が走った。 甘噛みはすぐに、名残を惜しむように舌へと変わる。 ぬるりと、濡れた舌が傷跡を撫で上げ、唇がその痕に吸いつく。 ちゅ、……ちゅぷ、と濡れた音が静寂に落ちた。「やめ……そんな、そこばかり……っ♡」 肩を震わせながら、セイランは抗おうとする。 けれど、抗うほどに熱が深く染みこみ、腰の芯まで疼きが達していく。 首筋を刻まれながら、すでにその身体は── 愛と罪の記憶に、ゆっくりと溺れはじめていた。*** それは、カイが五歳の頃だった。 帝都ラティナスの東端に佇む、ひとつの私邸。 帝国宰相セイラン=ミラヴィスが静かに暮らすその屋敷に、ひとりの幼子がいた。 名は、カイ=アレクシオン。 戦乱のさなかに両親を失い、幼くして天涯孤独となった。 彼を引き取ったのが、かつてカイの父と共に戦場を駆けた、ひとりの英雄――セイラン=ミラヴィスだった。 その夜、私邸の灯りはすでに落ち、子ども部屋ではカイがぐっすりと眠っていた。 ……はずだった。 廊下に微かな物音が響く。 ぱた、ぱた、と小さな素足がカーペットを踏む音。 カイは目を覚ましていた。 眠りの淵から何かに呼ばれるように目を開けた彼は、胸の奥に妙なざわめきを覚えていた。夢を見ていたような気がするが、内容は思い出せない。 そのまま部屋を抜け、廊下を歩く。 ──ふと、寝室の方に、わずかな光を見つけた。 扉は、かすかに開いていた。 そっと近づき、隙間から覗いたその先。 そこには、大人の男が